またもや?中国「ドタキャン」

日中総合政策対話に臨もうとした日本の谷内正太郎外務次官が、中国の戴秉国(タイピンクオ)筆頭外務次官に待ちぼうけを食らった。場所は北京。先日、呉儀副首相が小泉首相との会談をドタキャンした一幕を思い起こさせる。

呉副首相が後に明かしたように、ドタキャンの原因=靖国問題だったわけだから、今回もその筋のメッセージなのだろう。今回、日本側の受け止め方は外交筋も庶民もほぼ一様で、心の半分程度には怒りもこみ上げるが、それよりも「隣国はこんな国だったのか」という驚き・脱力感が、残りの半分程度を占めてしまう。一部に、日本外務官僚の不甲斐なさを嘆く声もあるが、そのことについては、いずれ別に論じたい。

私は、8月15日付けの本ブログで、呉副首相の件を論じ、「目的のために手段を選ばない中国を、手段を選んで目的を失うことが多い日本が張り合っていても、お互い得るものは少ない」と締めくくった。今回も、この仮説に沿った形で考えてみたい。(仮説が正しいかどうか、はいずれ再検討したい。)

私は、中国が今回見せた無礼極まる態度さえ、日本に長期的な影響を与えるだろう、と危惧している。なぜなら、中国は「靖国参拝を牽制する」という大目的があり、その目的達成のための手段を行っている。一方、日本は「対話(外交)を続ける」という手段が先にあるので、今回キャンセルされた原因を究明せざるを得ない。これが呪縛となって、一層「次の対話を成功させる」方向へとインセンティブが働くからだ。

実際、呉副首相のドタキャンが功を奏してか、日本の衆院議長、元・前首相たちがそろって小泉首相に、靖国参拝自粛を要請していた。今回も、今は怒りが支配的でも、時間がたつと「中国があんなに言うんだから・・・」という方向に、行ってしまいかねない。これは、外務官僚だけでなく、日本人が国民性として持っている性格に由来するように思われるのだ。

小泉首相は、今こそ、明確なメッセージを発する時である。

キエフで考える(2)

キエフで考える(2)

日本−ウクライナのサッカーW杯代表チーム同士による親善試合を観戦した。サッカーは、否応なく愛国心が高まるスポーツだが、ここウクライナも例外ではない。偶然、ウクライナ応援団に混じって観戦することになったのだが、キエフ市民らが見せた、真の愛国心というよりは「サッカーにかこつけた」愛国心の、無邪気で無責任な一面が、そこにはあった。その模様を報告したい。

3日前にキエフ中心部で花火が打ちあがっているのをアパートから見たとき、何の祭りだか分からなかった。後で知れば、2006年ドイツW杯への初出場を決めたウクライナ代表チームを、10万人(発表)の市民が祝福したという。場所は、オレンジ・レボルーションで市民が終結して不正投票の選挙を再選挙へと追い込んだ、昨年末のあの時と同じ、あのキエフ中心部の独立広場である。

同国チームにとっては、祭りムードを引きずったまま、国民への報告を兼ねた「凱旋試合」だったのが、今回の親善試合である。ホームで負けて、市民を失望させるわけにはいかない。実際、平日の午後5時の試合開始という悪条件にも関わらず、雨の会場では多くの地元サポーターが押し掛けた。ウクライナ国旗をあしらった布を頭に巻き、鳴り物を持ったような若者が中心を占めた。

好意的に言えば、オレンジ・レボルーションと同じで、「騒げればいいや」と考えているような若者たちが、サッカーにかこつけて国歌・国名を連呼している、という図式だったのかもしれない。しかし、ソ連時代を思わせる制服警官が禁止行為を見張っている中、それでもチャンスが来るや座席を蹴るファンたちの姿は、やはりサッカーならではという観がある。度が過ぎる余地が大きいのだ。

私はウクライナ人と一緒に観戦していたこともあり、両国の小旗を小さく振っていた。もちろん、日本チームの勝利を望んでいたが、もし本当に勝っていたら、どうなっていたのだろう?という疑問も残っている。殴られる、唾をかけられる、ぐらいの行為が、絶対に行われない、とは限らない。そういう雰囲気だった。また、旧ソ連で一番こわいのは警官、というのは通説。禁止行為を厳しく咎める姿勢は感じられたが、いざという時、本当に助けてくれたのだろうか。

キエフで考える(1)

スラヴ文化の初の結晶地で、キエフ・ルーシの中心地として栄えたウクライナの古都・キエフを訪れている。

昨年のオレンジ・レボルーションで一躍有名になったこの国は、実は、ソ連時代のプラスの遺産の一つとして、予想外に強固なインフラを維持している。独立直後には深刻なモノ不足に悩まされ、治安も悪化するなど混乱期を迎えたが、今では経済も成長に転じ、物流・物価はともに安定して市民は比較的安定した生活を送っている。キエフ・ルーシ時代の古寺・ソフィアも、比較的新しいスラヴ正教の聖地・ラブラも復旧し、文化宗教の都としての側面も取り戻している。

昨年の革命により、EU接近と、ロシアと一定の距離を置く政策を取るユーシェンコが大統領に就任。この国の政治的メッセージは明示され、国際政治における一定の役割も果たした。ウクライナの動きは、先年のグルジアから始まった一連の民主化の流れを加速し、複数の旧ソ連諸国に波及。多少の揺り戻しはあっても、本質的には不可逆な流れを作った。次に問われるのは、この民主化が成功モデルであることの証明として、一定の経済的成果を挙げることに集約される。

そうした進化を象徴するように、同国サッカーチームは、来年のドイツワールドカップへ向け、安定した闘いぶりを発揮して激戦を勝ち抜き、早々に出場のキップを勝ち取った。12日には、当地キエフで、日本代表チームとの親善試合が行われる。チケットを入手したので、当日の模様を報告したい。

ロンドンは政治の街

ロンドンを訪れる人は、週末に一度、スピーカーズ・コーナーと呼ばれる広場の一画を覗いてみてほしい。そこでは、政治的な主張を持つ者たちが、旗を掲げた仲間らとともに大声で演説を行い、聴衆たちは各所でスピーカーを取り巻いて、話に耳を傾けている姿を、目にすることができる。

私がいた頃、パレスチナ問題が悪化の一途をたどり、イスラエル軍による虐殺疑惑などが取りざたされた。パレスチナ住民に同情的なロンドン市民に抗するかのように、イスラエルの旗を掲げて熱狂的に演説するユダヤ人の姿などを見かけた。スピーカー同士の論争に発展することも珍しくないという。実際に説得される市民などは皆無だろう。ただ、言いたいことを言う、そういう場なのだ。

ただ、資本主義精神がグローバルに浸透していく時代にあって、脈々と絶えることのないアングロサクソン的なフェアプレー精神の原型を、このスピーカーズ・コーナーに見ることができる。それとも関係するのだろうか、英国の議会システムは、小選挙区制度下、見事な二大政党制を維持している。

パリで、トラックに・・・

3年前の春、滞在先のロンドンから休みを利用し、パリに日本から母を呼び寄せて一緒に旅行をした。母にとっては、初めての「憧れのパリ」。母の長年の夢がかなうのに助力できたことで、私はなんとなく高らかな気分になり、足取りも軽く街中を案内していた。

ちょうどエッフェル塔のまん前の交差点で、それは起きた。歩行者青信号。しかし、左手を前方から直進してきた大型トラックが、速度を上げたまま左折してきた。私は一体、何を思ったのだろう。トラックが「止まるべき」だ、と優等生マインドが支配したのか、まさにトラックの前に入り込むかのように手を上げて叫びながら、一人青信号を渡っていた。ありえない、一瞬の危険。急停車したトラックの中で、アラブ系の運転手が、理解できない、とばかりに手を振り上げて叫んでいた。私は軽率を後悔し、その念は今も続く。

一瞬の油断が、最高のシチュエーションを最悪に変えうる、ということを学んだ。言い訳はある。止めるやり方でなければ、トラックの後輪が危ない軌道を描くように見えたのだ。しかし、運転手の隣にいた男が、話に興じていた運転手を気付かせなければ、私はトラックにそのまま轢かれていただろう。それも、母の目の前で。長年憧れたパリで。

笑えない悲劇を、私は運良く逃れた。母すらも覚えていないかもしれない出来事だが、最近思い起こすきっかけを得たので、躊躇しながらも書き記してみた。

ドイツと組んだ、昔と今

国連の安保理改革は、第一ラウンドを終えた。日本はドイツ・インド・ブラジルと組んで常任理事国入りを狙ったが、アメリカ・中国・韓国などの強硬な反対に遭って議案すら提出できなかった。まるで、前大戦の様相だ。

それはそれでよい。前大戦こそが、今の国連が設立された原点である。日本−ドイツの枢軸ラインでもって、中国−アメリカの連合ラインを割ろうとした今回の試みは、露払いとして、前大戦の構図を思い起こさせてくれた。

問題は、枢軸ラインが敗れた後、これからの戦略である。次もまた、日本はドイツと組み続けるのだろうか。アメリカは、日本一国の常任理事国入りは支持してくれている。いっそ、四面楚歌を覚悟で、日本だけが新たに加わる「一増案」を出してみればよいのではないか? 結局、国は、自分一国で意思を決めなければならない。

憲法について一考

日本政治研究で知られるUCSDのエリス・クラウス教授(政治学)は、衆議院選挙期間中、東京に滞在。自民党の圧勝により、郵政民営化の次に浮上する政治課題として、第9条を含んだ憲法改正論議を指摘し、"If you're looking for the next issue, it will be very tempting for people to say 'Let's do it now'" (「もし(郵政の)次の政治課題について問われたなら、人々は大変たやすく言ってのけるだろう。あれを今やろうじゃないか、と」)と語った−と、ボストングローブ紙が伝えている。

記事は同時に、様々なハードルを乗り越えるにはまだ時間が掛かるだろう−と総括している。アメリカ人の間にも、GHQが策定したに近い現憲法については様々な見方がある。現在の世界戦略を重視して自衛隊の活動範囲拡大を容認する共和党的な見方もあれば、中国などアジアのミリタリーバランスに配慮し、また旧敵国・日本の軍拡を警戒する民主党的な見方もある。アメリカ人の個人個人の中にさえ、両方の見方が共存しているかのようですらある。

自民党がまとめた改正案で、第9条は、同党の議員各氏がふだんこぼす発言より余程、慎重な内容に留まったため、大きな議論にまではなっていない。これは、とにかく一回の改正を最優先に実現し、それを突破口に長年のタブーを取り払い、2回目以降に本格的なテーマを持ち越す戦略であろう。従って、アメリカや中国も「最初の一回」が将来の羅針盤になるとみて、過剰な注目を浴びせている。中国の姿勢は反対で明快だが、アメリカの姿勢は前述したようにさほど明快ではない。

郵政民営化のように議論がコワバって政争の具と化し、肝心の議論が空転しないためにも、第9条の改正は、外圧の意味や内容が精査された上で、国内で素早く議論され、実施されるのが、好ましいように思える。